ここ半年ぐらい、母方祖父系統の先祖調べに大きな進展はなく、モンモンとしております。
ところで、
昨日、
平凡社の日本歴史地名大系 福島をパラパラ見ていました。
それで、
あっさり解決したという話です。
昨年(2019年)5月に、母方祖父本家より、仏壇の過去帳から江戸時代の先祖の情報をいただきました。7月には、菩提寺の福聚寺様に、お寺の過去帳とマッチングしていただきました。
ところが、
初代(1710年没)、二代目(1780年没)がお寺の過去帳になかったということでした。
プロフェッショナルなお二方に、どうしてだろうか?!とお聞きしました。
A様説:領主が移転するとき、お寺ごと持っていってしまうことがある。
戦国時代の領主様のお寺の檀家で、その後福聚寺の檀家になったのでは?!
領主様にお聞きしたところ、戦国時代のお寺は分からないということでした。現在のお寺には明治時代からの先祖からしかお墓がないということで。それは何故かを調べてくださいました。江戸時代は別のお寺で、それは無くなった(廃仏毀釈で廃寺のパターンありますもんね!)とのこと。そして今のお寺は、明治時代になってから檀家を受け入れるようになったということでした。
B様説:①戒名のパターンが以後の先祖と同じパターンなので、同じ宗派(寺)である。
同じ宗派で菩提寺が変わったのではないか?!
②福聚寺の過去帳の古い部分がある段階で失われた可能性が高い。
③福聚寺の檀家になった段階で確認できなかった先祖を後世に発見して、本家の過去帳
に追加した可能性。
ということでした。
昨日、平凡社の日本歴史地名大系で、福聚寺の記述で、天明年中(1781-89)に全焼の記述が!!
それです。なので、1710年没と、1780年没はお寺の過去帳が失われているのでデータがないわけです。解決!!
福聚寺は何度か火災にあっているということをお聞きしてはいましたが、時期を特定の上、結びつけて考えはしませんでした。
福島県の町並みと歴史建築>三春町 福聚寺
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確かに、
現在の福聚寺本堂(寄棟、鉄板葺、平入、桁行8間)は天明5年(1785)に焼失後の寛政12年(1800)に建てられた古建築物 とあります。
以下の画像は、歴史民俗資料館の平成5年度特別展の図録からです。
天明元(=安永10)年 福聚寺堂宇焼失。
天明5(1785)年 三春城下のほとんど焼失の大火により、再び罹災
寛政12(1800)年 仮普請。それが現在の本堂
これら完全スルーしていました。
平凡社の日本歴史地名大系、福聚寺の記述で、
シンプルに、天明年中(1781-89)に全焼 のフレーズでビシっと決まりました!!